「自由からの逃亡」
「自由からの逃亡」
こんにちは、立川キャンパスの橋本です。
現在休校中の立川キャンパスですが、毎日ランチタイムにビデオ通話をつなぎ、
生徒と会話をする時間があります。
(もちろん、それが単位になるということもないですし
強制ではないので、気が乗らないときは休んでも大丈夫です)
ある日の会話の中で、生徒が面白いアイテムを見せてくれました。
なんと、懐中時計です。
ここしばらく見ることがなかったアイテム。
手の中において見る、腕時計以前の道具です。
きれいな装飾が施された懐中時計は、令和の時代でもカチカチと時を刻んでいました。
スマートフォン一台で時計にも電話にもできる今、
こうした古式ゆかしいアイテムはだんだん減りつつあると思っていました。
しかし、こうして改めてみてみると懐中時計、愛らしいではありませんか。
時を刻むことに特化したそのフォルムには、誇りすら感じます。
かくいう私もここ数年は万年筆を愛用しており、
インクのこぼれや、手入れの手間も愛すべきものだと公言してやみません。
万年筆と懐中時計、どちらもクラシックな実在感と面白みがあるなあと思っていたら、
同じ会合で、なんとポラロイドフィルムのカメラが出てきました。
「この色合いがいいんですよ」と生徒。
同じ色合いはアプリでも出せるかもしれません。
でも、実在感のようなものは、アプリ上のデータには少し欠けています。
ほかの生徒にも聞いてみたところ、
ポラロイドカメラ、いま少し流行りつつあるようです。
手書きで文字が書き込めたり、はさみと糊で加工できたり・・・
なんでもデジタルでできる時代だからこそ、
アナログの面白みが再発見できるのかもしれません。
画像や音声に工夫を凝らした電源ゲームにも
人間だけでやり、時々はルール間違いも起こす非電源ゲームにも
それぞれの良さがあります。
アナログを称揚しデジタルを落とすのではなく、
スマートフォンと懐中時計のように、全く違う存在感のものとして共存できればいいなと思います。
制限は想像の母という言葉があります。
Magic ;the gathering というゲームの開発責任者であるマークローズウォーター氏が
いつも述べている言葉です。
何でも自由だといわれると、人間は膨大な選択肢の前に足をすくめます。
ゲームデザインとは、膨大な選択肢を「手札」や「賽の目」で区切ってやる作業です。
賽の目や手札の枚数によって行動が制限され、思考の余地が生まれます。
そこではじめて、人間は一歩を踏み出せます。
制限があることによって、思考の深化が進むのです。
読者諸氏にもかつて「夏休みの自由研究」の「自由」の二文字を前に、
硬直した経験が御有りの方も多いのではないでしょうか。
スマートフォンやPCは高性能で「なんでもできる」がゆえに、思考が拡散してしまう時があります。
作文を作ろうと思っていたのに動画を見ていた。
動画をチェックしたかったのにメールを見ていた。
気が付くとネットマンガで時間が過ぎていた。
そんなことが起こりがちです。
懐中時計や万年筆、フィルムカメラのような、ある意味で「不自由な」道具は
本質が実存に先立つため、目的外使用が原則としてできません。
私たちは、時々はあえてそのような不自由な道具を使うことで手札に制限をかけ
自分の脳に集中した仕事をさせる時間が必要になってきているのかもしれません。
エーリッヒフロムとはまた違う意味で、自由から逃げ不自由に身をゆだねる楽しみ。
ポラロイドカメラのブームには、そんな側面もあるのかなあと思う橋本でした。

昨年度の様子です