言葉とともに生きるということ
こんにちは、立川キャンパスの宇野です。
授業をしていると、よく指摘されること。
それは言葉遣いが古い(笑)
生徒たちは私が古文を教えているから古くさいと思っているのかもしれません。
が、違いますよ。
古文に影響されているならば、もっと言葉は古いものになるはずです。
私の言葉のチョイスが懐かしのオールデイズなのは、
単に私が昭和生まれだから(笑)
言葉は生き物。
またたく間に変化や増殖、そして衰退をしていきます。
今日の授業中に驚いたのは「いささか」が古文単語帳に載っていたこと。
え!?「いささか」ってアタクシ普通に使う言葉なんですけど。
古文単語なのですか!?
ギャル全盛時代に思春期を過ごした宇野からすると、
サイコウにナウい言葉は「チョー」や「マジ」。
しかし、生徒と会話していると「チョー」はほとんど言わない模様。
「マジ」は言うけど、どっちかというと「まぢ」な模様。
そして現在ナウいのは「〇〇み」という表現な模様。
「わかりみがふかすぎてやばたにえん」
→非常に深く共感することができます
「バブみを感じてオギャる」
→あなたの母性本能を感じてつい甘えてしまいますわ
また、すぐに会話にわんこが登場してきます。
「ワンチャンできるくない?」
→もしかしたらできるかもしれないよ!
おばさんは最初聞いたときワンちゃんがどうしたのかと思いましたよ。
「泣いた」
→泣きそう
泣いてないのになんで過去形なのでしょうか。
「エモい」
→じーんときちゃったわ
これは古文単語で言うところの「あはれ」ですね!わかりみ!
大人の中にはこのような言葉遣いを嘆かわしいと言う方がいるかもしれません。
しかし、私はそうは思いません。
なぜなら先程も言ったように言葉は生き物だから。
彼らの言葉遣いが嘆かわしいのであれば、
昭和の言葉遣いだって平安時代の方々からすれば十分嘆かわしいものでしょう。
嘆かわしいのはいわゆるTPOをわきまえないということです。
例えば「わかりみ」
若い人の間では通じる言葉なのでしょうが、
どう考えても大人世代は使わない言葉遣いです。
にも関わらず、大人と会話する時に「わかりみ」と言ったらどうなるでしょうか?
さっぱり意味不明なわけです。
言葉とは意思疎通の手段です。
思っていることが相手に伝わらなければいけない。
大人に対して「わかりみ」ということは、
相手が受け取れないにも関わらず一方的に自分の思っていることを押し付け
満足するということ。
相手がナッツのアレルギーがあるのを知っているにも関わらず、
「おいしいよ」とナッツ入りのクッキーを渡すようなものなのです。
立川キャンパスの皆さんは優しく素晴らしい人たちばかり。
どんなに生徒同士で「わかりみー」と言っていようとも、
私には「分かります」と言ってくれます。
でも、そろそろ私も「わかりみ」に対するわかりみが深くなってまいりましたので、
たまには「わかりみー」とおっしゃって頂いても結構ですことよ!