「ますます元気な進学クラスの現代文」
通信制 一ツ葉高校 千葉キャンパスの宮本です。
みなさん、こんにちは。今日は、先日もお話ししましたが進学クラスの現代文の授業について、また少しお話ししたいと思います。
前回のブログの中で・・・「いつ指名されるか分からない」ドキドキ感よりもハードな、「いつでも自分の考えを論理的に述べられる」ように備えていないと・・・というくだりがありましたが、一見すると同じように見えますね。
ということで、ここのところを少し詳しくお話ししたいと思います。
前回もお話ししたように、この授業では常に「論理的である」ことを要求しています。所見→論拠+推論(最大3セット)→所見という基本セットで表現できるように、思考し、論説(表現)できるようにまとめあげるトレーニングをしています。
私の授業では、要所要所で説明を入れますが、基本的には次の言葉で構成されています。つまり、生徒達は発問を受けて何かを答えたとしても、すぐにこれらの言葉の洗礼を受けることになる訳です。
「で?(所見が曖昧or決定的な論拠に掛ける時など)」
「なぜ?(論拠+推論→所見の蓋然性の証明が乏しい時など)」
「ふーん・・・?(論理の揺らぎに再考を促す時など)」
そして、これらを乗り越えていく中で、自然と自身の思考や論理に検証を加え、論理の脆弱性や曖昧或いは回りくどい表現を改善する癖がついていくようです。歴代の卒業生達がそう言ってくれているので、そうなのでしょう。
時には、発言した生徒の目を見据えて「自分で納得して、その論理を展開してる?」と、生徒達いわく非常に厄介な根底から突き崩すような問いを投げかけます。一瞬でも目が泳いだら最後、「自分が納得できていないもので、他人を納得させられると思う?」、で振り出しに戻される訳です。
もちろん、人間は理性だけではなく感情によっても支配されていますから、論理がすべてではないでしょう。また、人生を生きていく中で常に明快で論理的な思考を持って行動することばかりではないですし、他者を説得する際にも自身のある時ばかりではないでしょう。想定外のことも多々起こります。
しかし、想定レベルを高く或いは深刻なものにしておくことに越したことはありません。漫然と高を括っている人に限って、ほんの些細な想定外にさえ後手後手の対応をするものなのです。
生徒達からすれば、常に想定外レベルの質問を私はしてくるのかもしれませんが、教材は用意されたものですし、私の指導手法も日々変わるものではなく、そもそも現代文の授業そのものが机上の空論なのですから、間違えたところで命を落とすこともない。
だからこそ、全力で論理的であるための研鑽を全力で積み続けて欲しいと考えています。
私の授業では、間違えることをなんら恥としません。むしろ、恥ずかしいと思う心、他者の失敗を「あーあ、間違えちゃったなあ」と揶揄するような心を恥とし、直感による或いは偶然の正解に浮かれる慢心をこそ最大の恥としています。
一所懸命にテクストに当たり、一所懸命に考えて、しっかり論理を構築したと思っていたのに間違えてしまった。このどこに恥ずべきものがありましょう。こちらの方が直感や偶然による正解よりも素晴らしい。
たとえ間違えであったとしても、すぐに「どこで、なぜ間違えたのか」を検証し、改善と成長に繋げることが出来るからです。
正誤を恐れることなく全力で思考する。そして、間違いであったなら迅速に検証と改善に着手する。そういう点では、正解も満点も学問の一過程にしか過ぎないのです。
こんな授業ですから、「ドキドキ」云々のレベルでは済まない状況なのです。毎回が真剣勝負です。
私の突っ込みも、生徒自身が「ぐぬぬ」と詰まるような思考の痛点をつく的確なものでなくてはなりません。かくいう私自身も、日々真剣勝負なのです。
屁理屈を瞬殺し、理屈を鍛える今日この頃です。
あれ、これJRC部の指導と基本的にあんまり変わってないかなあ?
よくみるとVSカードの指導の時と殆ど変らないような・・・
通信制 一ツ葉高校 千葉キャンパス 宮本