自分探しの旅
こんにちは、立川キャンパスの宇野です。
立川キャンパスでは、コロナ禍になって以来、学校が再開しても、
授業は全てオンライン配信をしています。
このため私の生徒は「教室or画面の向こう」の2箇所にいるわけになります。
本日の休み時間のこと。
つい先程までやっていた授業にオンライン出席していた友だちとしゃべりたかったのでしょうか。
私が使ってるカメラの前に生徒たちが集まってきました。
しかし、残念ながら友だちはすでにオンライン教室を退出済。
そうなると映るのはおのれの顔面のみとなります。
生徒たちはまじまじと自身の顔面を凝視。
そんな時3年生のL君が一言。
「俺って相手からはこんなふうに見えてんだ」
普段慣れ親しんだ自分の顔面は、鏡を介しているため左右反対。
一方でカメラが映す自分は左右が反転していない真の自分。
いつも他者から見られている自分。
だから、カメラに映った自分を見て違和感を抱いたのでしょう。
同じことが声にも当てはまります。
いつも聞いている自分の声と、録音して聞く自分の声は全然違いますね。
いつも聞いている自分の声は、器官や骨などが振動するため、真なる自分の声ではない。
録音して聞く違和感しかない自分の声こそ、相手が聞いている声。
私は常日頃思うのです。
この世で一番よくわからない存在、それは自分自身ではないだろうか、と。
私たちは鏡がなければ、おのれの姿形すら把握できません。
そして、たとえ鏡を見たとしても、そこに写っているのは左右反転した自分。
相手から見られている自分の姿形を見る術を、私たちは通常有していないのです。
声も同じく。
きっと心も同じく。
自分が認識する自分の心は、鏡に写った自分の顔面や、骨伝導を通して聞いた自分の声と同じように、おそらくとても偏った情報によって想像されたもの。
自分自身を真の意味で知ることは不可能なのかもしれません。
寒くなるにつれて、3年生の進路選択がにはかに現実味を帯びてきます。
そんな時、
自分は何をしたいと思っているのか分からない。
想像していた自分と現実の自分が違う。
などなど、自分自身のことでたくさんの悩みを抱えることになります。
確かに自分自身についての悩みはひどく辛いものです。
私もたくさん経験したからわかります。
しかしそれは仕方のないことなのかもしれません。
なぜなら分かっているようで、自分って得体のしれない存在だから。
それでも一生付き合っていかなければならないのが自分。
辛いかもしれないけど、悩んで悩んで悩み抜いて。
少しでも「自分」という存在を知り、彼とうまく付き合う術を身につけるきっかけにして欲しい。
進路選択に悩む高校生たちの後ろ姿を見守りながら、そっと念力をおくっている今日この頃です。